日蓮宗では大荒行堂秘伝の秘妙五段終練加持(ひみょうごだんしゅれんかじ)というご祈祷法をもって神仏に願い事を成就する ように修法いたします。
願い事の成就には、ご自身の努力が必要なのは言うまでもありません。
例えば、身体の健康を祈っても暴飲暴食、運動不足では意味がなく、交通安全を祈っても、乱暴な運転をしては意味がありません。
自分の努力と、自分の努力では叶わない目に見えぬところを助けてもらう守護をもって成就すると考えて間違いありません。
神仏は太陽の光のように万民に対して平等に慈悲の力をくださいます。我々はそのことに気付 かずに有難みを忘れ感謝を忘れて生きています。
祈りとは、日々の生かされている不思議さにありがとうございますと感謝の真心をこめる行為 なのです。
神仏の守護と自身の感謝が一致する時に、守護を頂戴できます。 また、特殊なケースとなりますが守護が頂戴できない状況がございます。 いわゆる五段の邪気に邪魔されるケースです。
いずれも、他者に対する敬愛の心を失した結果で自業自得でありますが、この障りを受けると いくら祈っても邪魔が入り精神病的な形で現れたり、身体に痛みや病気を現すこともあります 。
供養や祈祷による平癒を祈りますが、時間がかかることが多いです。
なぜなれば、障りとなる霊は深い反省や謝罪を本人や一族に求めるものなので真剣さや素直さ
が必要となります。
日々の無事を祈り、家族の安泰を祈り、日本の平和、世界の平和を祈り人生を歩みましょう。
一般的には亡くなられた方に対して冥福を祈る年回忌の法要をいいます。
しかし、本当の意味での供養とは私たちの愛情の最大級の表現と言えるでしょう。
なぜなれば、生前大切な方は死してなお大切な方であり、何か一つでも自分にできることはな かろうか?喜んでもらえないだろうか?と思う深い愛情あってこそ供養したいという思いに繋 がるからです。このように考えますと、供養は年回忌のみすれば良いというのは間違いであり、毎日しても良 いものであることが分かります。
三回忌、七回忌・・・というのは社会に呼び掛けて行う節目の公式の法要。毎日の供養は私的 な法要と言えるでしょう。
供養には様々な種類があります。それこそ亡くなった人に対するもの、ご先祖様、飼っていた ペットや飼育していた家畜、流産死産の水子、正体は分からないが怪しい場所から背負ってき てしまった霊等、供養の対象も沢山いらっしゃいます。 また供養の内容も、感謝の法要、慰霊の法要、謝罪の法要、施餓鬼の法要等の種類があります 。
いづれにしても愛情の表現であることに変わりなく、相手をどのように尊び喜んでもらおうか という真心が肝心になります。
僧侶の読経は死者と生者を繋ぐものであり、仏陀の慈悲の心にすがって冥土の導きを祈るもの であります。
誰しも心残りがある大切な方がいらっしゃると思います。どうぞその優しい真心を供養という 形で表現なさって下さい。
きっと、固く閉じられた心の氷は融け、供養された仏さんたちも霊界でにっこりと笑顔になる ことでしょう。